団体を運営する委員会では、どんな人達が携わり、何を大切にして運営しているのか?
運営委員が集まり、座談会を開きました。
お読み頂くことで、団体の空気感、携わる人物、目指している方向性などを感じて頂ければ幸いです。
全国小水力利用推進協議会(以下、水力協)は2005年7月16日に発足した法人格をもたないボランティアの市民団体です。小水力利用の調査研究や普及発展を図り、社会の再構築を目的として設立されました。
今日は、水力協設立の準備段階から現在までを振り返りながら、今後のビジョンをみなさんとお話ししたいと思います。まず、簡単な自己紹介と水力協発足のいきさつから始めたいと思います。では前田さんからお願いします。
生活協同組合の職員だった頃、デンマークの風車やノルウェーの水車を何度も視察し、その度に北欧の自然エネルギー利用に驚かされました。退職してからは日本にも自然エネルギーをと活動を始め、古賀さんや茨城大学の小林久さんらと知り合い、1997年の京都会議(気候変動枠組条約第3回締約国会議、COP3)が開催された年に、自然エネルギーの普及啓発を図り古賀さんらとNPO法人クリーンエネルギー・フォーラムという団体をつくったんです。古賀さんはそれ以前から小水力発電を研究されていましたよね。
小水力に取り組み始めたのは、岩手大学の農学部で教師をしていたときです。農村開発や農村計画を研究しており、1995年頃でしょうか、卒業論文のテーマを探している学生に小水力発電を勧めたことがあったんです。ちょうどそのとき文部科学省の科学研究費がもらえたので、卒業論文とあわせて実際に水車をつくって発電量などを調べました。
当時、自然エネルギーと言えば太陽光や風力ばかりで、小水力はほとんど取り上げられることがありませんでしたね。そこで朝日新聞に「小水力を忘れていませんか」と投書をしたところ、私の意見が取り上げられたんです。そしてその記事を前田さんの知り合いが読んで、前田さんたちのグループに引っ張られ、現在に至っています。
古賀さんたちと活動を進めるにつれ、小水力が秘める地域再生などの可能性に注目するようになりました。ところが、他の自然エネルギーと違って小水力は水利権の調整など複雑で、太陽光のように個人で屋根にソーラーパネルを設置すれば発電できるというわけにはいきませんし、何より他の自然エネルギーに比べ知名度が低い。そこで、小水力専門の団体をつくろうということになったのです。
でも、それには先頭に立って動いてくれる事務局長が必要です。誰にお願いしようと古賀さんたちと話していたとき、当時、分散型エネルギー研究会で活動していた中島さんに、となったんです。NEDO(独立行政法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の公聴会などで積極的に発言しているのを傍からみていて、エネルギッシュですごい男だなと思っていました。
分散型エネルギー研究会は仲間とつくった市民団体で、事務局長のお話をいただいたときは活動を終えていました。遡りますが、私が小水力の魅力にひかれたのは、静岡県藤枝市の臼井太衛さんたちが中心となって活動していた水車むら会議に参加してからです。最初に参加したのは1982年、私が大学生だったときです。その後も自然エネルギーに関わるのですが、当時は小水力に特化して活動できるほど社会で小水力が知られていなかったので、分散型エネルギー研究会で自然エネルギーと省エネルギーの活動を始めたんです。
ところで、水力協設立の準備をしていた頃、京都市嵐山で嵐山保勝会水力発電所の建設事業が始まっていましたね。
地元の観光業者がつくる嵐山保勝会が主体となって進めたもので、私たちも参加して一緒に事業を進めたんです。地元出身の国会議員の野中広務さんや、後に水力協の会長をお願いした元農林水産大臣の大原一三さん、現在の副会長の小水力発電の専門家の須藤良作さん、元国土交通省河川局長の竹村公太郎さんを呼んでセミナーを開いたり、みんなで宴会をしたり。一度、天竜寺の講堂を借りてセミナーを開いたときは、和尚さんが登場されて「鎌倉時代、夢窓疎石によって開山された我が天竜寺は、古より桂川から水を引き庭園の池に利用してきた」と話されたこともありましたね。
野中広務さんなどの政治家がいらっしゃったのには驚きました。事務局長を引き受けたときは市民活動の延長のつもりだったので、いったいどんなところに引っ張られたんだろうと。大原一三先生は水力協の初代会長です。先生はとても立派な方で自然エネルギーの活動に熱心でした。先生の事務所に何度もうかがい、そのつど勉強させていただきました。2005年11月に亡くなられ、お葬式で読まれた三通の弔電のなかに水力協が打ったものがあったんです。それだけ小水力発電に思い入れがあったんですね。
現在の会長は愛知和男先生です。先生は1999年に設立した「自然エネルギー促進議員連盟」の初代会長で、当時から「固定価格買い取り制度(以下、FIT)」の導入に熱心でした。ですから、単なる名前貸しというのではなく、政治家の方には活動に積極的に関わっていただいています。
話は戻りますが、嵐山保勝会水力発電所は一級河川の河川区域内に建設された全国で最初の小水力発電所ですよね。当時は規制が強く、河川区域内に発電所を設けるなどタブーでした。大雨の際に水が流れなくなる可能性があり治水上問題だと。
嵐山保勝会水力発電所が運転を開始するまでには法的な手続きや地域の合意形成など多くの人が関わったんです。そして技術者としてシステムを担当していたのが金田さんですよね。あの時は会社を辞められたあとでしたか。
そうです。私は最初から小水力発電だけを手がけていたということではなく、東芝エンジニアリング株式会社(現、東芝プラントシステム株式会社)に入って最初に担当したのが長野県大町市の新高瀬川発電所でした。単機32万kWが4台で、総出力138万kWの日本最大級の揚水発電所です。それから35年、手がける発電所はだんだん小さくなって、これまでにつくったもので一番小さなものは300Wです。 当時は、山梨県北杜市のひまわりニューエネルギー株式会社の仕事をお手伝いしており、山梨県都留市の「家中川小水力市民発電所“元気くん1号”」の建設にも多少関わりました。この計画の土木設計業務(コンサルタント)は、中込さんの会社が担当しました。
元気くん1~3号の土木設計は私どもで担当させていただきました。山梨県で土木コンサルタントの会社を営んでおり、声をかけていただいたんです。
専門は道路なんですが、元気くん1号の建設に関わってからは小水力が面白く、水路などの水利施設もたくさん手がけるようになりました。
小水力の団体をつくろうと言っても、技術者としての専門家がいなかったんです。そういう知識もなく偉そうなことは言えないので、無理矢理にでも引っ張ってこようとしたんです。
さまざまな方が集まって発足に至ったわけですが、松尾さんは設立総会から関わったんですよね。
当時は大学院生で土木工学と環境経済を勉強していました。個性がなくなったと言われるようになって久しい日本の街が、どうしたら個性を取り戻せるか。その具体的な手段として自然エネルギーを勉強しており、ISEP(NPO法人環境エネルギー政策研究所)にインターンしていたんです。そこで小水力発電の団体ができるとうかがい、設立総会から水力協に参加させていただきました。それからしばらくして永井さんにも手伝ってもらえるようになって。
2007年からです。私もインターンでISEPにおりました。そのとき中島さんと出会ったのが小水力にはまったきっかけです。ちょうど政策面でも自然エネルギーの気運が高まり、忙しくなるので手伝ってほしいと言われて事務所に出入りするようになったんです。それ以前も自然エネルギーを勉強していたのですが、太陽光や風力ばかりで小水力はやっていませんでした。でもニッチなものにひかれるせいか、小水力にどんどん引き込まれていきました。