2016/09/08
2016年9月8日掲載
我が家に電気が点ったのは定かでないが、小学校の入学前1934年ころであったと思う。当時、家族10名(曾祖父、祖父母、両親、伯母3名、妹)で、夜の明かりは石油ランプか蝋燭で、伯母達が交互にランプのホヤに付く煤(すす)をとらなければならぬが、手は汚れ、下手をするとホヤを割り、怪我をすることもあるから大嫌いな役目でよくこぼしていたから、ポッカリと裸電球の灯りは煌(きらめ)いていた。だから伯母達の喜びは如何ほどであったか。この電源は隣村小出村の蛇場見に近隣町村で結成した
仁賀保電気組合が経営する水力発電所である。「点いたり消えたり蛇場見の電気」と揶揄されても、それはもう有り難いものであったが、全世帯が利用できるまでは相当の年月が必要であった。
ちなみに日本の電気は明治11年(1978年)ガス灯から電気になっているようであるから、約半世紀かけて秋田の田舎に電光が点ったことになる。そして今では夜を日にあげず何もかも電気の時代となり、これの電源が生命体の滅亡しかねない原発となり、賛否両論でモメこんでいる。
発電に伴い電気柱が建つようになり、次に出てくる電話で電信柱と並立され電信柱一本に数十本の電線が張られ、それに群れ雀などが所狭し留まる姿も今は昔となってしまった。
それからまもなく電話が我が家に入った。100余戸の集落に唯1戸、それは祖父が集落会長をしていたからで、そのとばっちりは総て私の身にふりかかってくることなど想像もせず喜んだものであった。
その多くは個人にくる電話で、知らせに走り告げ係なのである。それには人の名前と家の場所を覚えなければならない。幸い当時の家は屋号か家名が付いており、世帯名を覚え、後はその家の立場で呼べばいいわけで、父ちゃん、母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃんといった具合でよかったから。もう一つ不満は、この大変な役割なのに、お駄賃手当が皆無であったことである。
お駄賃の話になると、何の芸もないお金ではなく、何かちょっとした手製のおやつである。干し餅とかあられ、こうせんなど。お駄賃のことで忘れられないのは買い物の役で、当時は村には組合(産業組合)が各集落に一軒の委託店舗を設置し、日用必需品を通帳で購入できる制度があり、よく使い走りで出かけたものである。
すると店番の母さんから「よくきたな、ほらお駄賃だよ」と大きな黒砂糖桶から鑿(のみ)で描き出した黒砂糖の固まりを手に乗せてくれる。それを帰宅する道すがら、右手に唾をつけて溶かしながら、舐めては溶かしできるだけ長時間甘みを長引かせる作戦で、あの美味しさと嬉しさは今も鮮明に蘇る風景である。
農学校の寄宿舎生活をするまでの少年時代にお金を使ったのは、少年倶楽部の臨時増刊を買うときだけであった。(毎月は買えなかった)。だから金勘定はまったくだめであった。金銭では組合購買で自転車が華形の頃「組合号」が出て、丈夫で割安で人気があったが、パンクや修理の際、業者が修理拒否で結局製造中止された。今の農協たたきがかっての産業組合にも存在したのである。