2016/05/30
2016年5月30日掲載
はじめに
昭和25年から20年間に中国地方5県では地域経営の自家用小水力発電所が90カ所(1万2,200kW)建設され、そのうち82カ所は、全量売電式で農村の経済効果のみならず戦後の厳しい電力不足に大きく貢献している。
ここでは昭和21年中国配電(現中国電力)役員を辞任した「織田史郎」(イームル工業創立者)が、地域の小河川を利用した小水力発電が有力な電源として役立つことを考案し、その開発に生涯をかけた活動をまとめたものである。
織田史郎の略歴と人となり
織田史郎は明治29年、4男2女の長男として広島県海田町に生まれた。家庭の経済状況から早く仕事につくため職工学校(現広島県立工業高校)へと進んでいる。織田史郎の弟は1,928年アムテルダムオリンピックにおいて、三段跳びで日本初の金メダリストに輝いた織田幹雄。幹雄の10歳上の兄である織田は、広島陸上界のホープである弟を、自らの資金援助により早稲田大学に通わせている。この時の織田は、学歴無しの入社ながら、電力会社で第一種電気主任技術者の資格をとるほどの優秀な社員で、破格の待遇を受けていたという。
織田の賢人ぶりを思わせるエピソードが残っている。職工学校2年生の時、朝鮮人観光団の学校視察の折、生徒たちが教室のドアーに微電流を流し、案内の校長がノブに手をかけて発覚、激怒するといういたずら事件が起こった。
織田は首謀者として放校された。しかし、実際は織田があまりに勉強家で、教科書以外にも海外の電気技術書を自習し、教師も知らないことを質問し困らせていたことが要因とされている。
学歴は尋常高等小学校卒となったものの、職工学校で群を抜いて優秀な生徒がいるとの評判は、電力会社に伝わっていた。織田は、広島呉電力会社に就職、入社後も海外書を英語・ドイツ語辞書で読むなど猛勉強し、難関の電検一種合格したのは28歳だ。すでに対官庁では役員級の対応を受ける貴重な技術者であった。発電建設部長から42歳で取締役技術部長に昇格。豪邸を建てたが、書物が入りきらず、別棟に書庫を建てたという逸話も残っている。
昭和20年の敗戦時には50歳、中国配電筆頭理事の要職にいたが、敗戦濃い20年初めにロケットの制御技術担当責任者として軍に招集されている。
しかしこれが仇となって昭和21年11月マッカーサー追放令の対象者となり、退職金無しで同社を辞任した。
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